虎之助の映画記

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実写版「進撃の巨人(後編)」

進撃の巨人 
監督:樋口真嗣、原作:諌山創、出演:三浦春馬長谷川博己水原希子石原さとみ

懲りずに後編を観てしまいました(笑)。意外と楽しめました。前編を観て免疫ができていたのが良かったのかもしれません。

楽しめた要因は、以下のあたりでしょうか。

  • 原作のストーリー・キャラクタに捉われずにみることができたこと。キャラクタ変更・新キャラクタにも慣れ、大部分はオリジナルストーリーだったので、原作との違いはあまり気になりませんでした。
  • 顔の区別ができるようになったこと。前編は、同じ服を着た、同じ年代の平たい顔族の人が沢山でていたので、出演者が区別できなかったのです。後編は、出演者が減ったので区別できるようになりました(若い役者さんは、良く知らないのです。それでも、ほぼ同じ年齢、ほぼ同じ背丈、ほぼ同じ髪型、ほぼ同じ美形の三浦春馬本郷奏多を、区別しろというのは、酷な話。少なくとも、髪型・髪色ぐらいは差をつけてほしいです)
  • 変なプロットを張りまくった前編に比べて、映画の冒頭に近いところでほぼストーリーが見えたので、ストレスなく安心してみられたこと。
  • 東宝怪獣映画という見方をしたこと(笑)

雑な作りなところも多く他の人にお勧めできる映画ではありませんが、ボロクソに酷評するほどでもないです。前編も原作を知らなければ、ソコソコ楽しめたのかもしれません。



さて、ここからは、ネタバレ多数ですので、ご注意ください。

  • 物語の背景はシンプル。かつて開発された巨人兵器により文明は崩壊した。世界はウォーキング・デッドな巨人で満たされ、人類存亡の危機にあった。残った人類は、壁を築き、限られた世界の中で生存していた。統治者は、限られた世界の秩序を守るため、歴史を封印し、壁外にいる巨人への恐怖で民衆を支配した。民衆の中には、壁内の抑圧から解放され、外の自由な世界へ出ていくことを切望するものが現れた。統治者は、壁を破壊し、巨人への恐怖を再認識させることで、限られた世界の秩序を維持しようとしたのであった。
  • 草薙剛演じるお父さんのシーンで、兄=シキシマ=巨人ということで、物語の背景・大筋がほぼ読める。安心、安心。
  • お父さんシーンでの「特定知識保護法」はダメでしょ。「特定秘密保護法」から借用した用語で、安倍首相を思い出してしまいます。ファンタジーの世界に現実世界を持ち込んではいけません(AppleTVリモコンも同じくダメ)。わざわざ特殊用語を使う必要はないのですが、もし使うとしても「図書館戦争」の「メディア良化法」や「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」の「公序良俗健全育成法」のように、オリジナルの言葉を使いましょう。
  • 巨人の群れの襲撃が、前編の見どころだったのですが、後編ではほとんどなくなって、寂しいです。アンガールズの田中さん、好きでした。
  • 基本的にアクション活劇・ウルトラマン映画なので、ジメジメとした心理描写はさらっと流して欲しいですね。心理的な流れで特筆すべきことは特になかったので、長々とやられると疲れます。
  • カメラワークがいまいち。どうすれば良いかというのは分からないけど、少なくとも、カメラ前のガラス面に血を吹きかけるのはナシ。
  • 後編で明かされた衝撃の真実。シキシマの女ミカサは、DV被害者だった。ミカサの性格の変貌は、巨人の襲撃によるものでなく、シキシマのDVが原因だった。シキシマに抵抗できない・逃げられないというのは、DVの影響である。シキシマの暴力性は、弟にも向けられたのであった。本作は、シキシマのDV被害からの救済をテーマにした問題作なのである(なんちゃって)
  • 体制側は抑圧的・非人道的で、反乱軍はそれに対抗し民衆を解放するというのがお約束。本作では、シキシマ率いる反乱軍は民衆を「家畜の安寧」から目覚めさせ、抑圧から解放するというのが、大義名分。それなのに、なぜかシキシマは、体制側と同じく壁を破壊し、民衆を恐怖に陥れるという手段をとり、さらに人類の滅亡を厭わないというアナーキスト大義名分と矛盾している。マゾヒズムの狂人として描かれるのならまだしも、長谷川博己演じるシキシマは、DVはあっても心優しいウルトラマン兄なのよね。優しいウルトラマン兄のシキシマが、最後にシュワッチするところは、予定調和していていますけど。
  • 白い部屋とジュークボックスのシーン。物語背景の説明のためのシーンだけど、白い部屋はちょっと違うのではないかなぁ...。未来的ですよね(エンドロールの後のシナリオと繋がるのではありますが、あれ余計だし)。スタンダードに旧文明の遺構でいいと思います。旧文明の兵器との整合性もありますし。あと、音楽センスないです。全体的に音楽のセンス悪いと思うけど、ジュークボックスシーンなので特に目立ってしまう。
  • そういえば、シキシマ兄弟の兄弟としての感動の再会が描かれていない。お父さんシーンで、配役的に、兄=シキシマでほぼ決まりですが、分かる人にはすぐ分かると思うけど、付いていけない観客もいるのではないですかね。見落としていなければ、兄さんはカミングアウトとせず、最後までシキシマ=兄さんは確定していなかったような気がします。
  • 兄弟喧嘩と、ウルトラマンになってからの兄弟喧嘩のシーンは見せ場なのに長く感じてしまう。それに、ウルトラマン兄弟の戦いで必殺技をだすシーンは勿体ない描写です。「これは必殺技ですよ」と回想シーンで説明してしてから、必殺技をやられると、折角のアクションシーンの見せ場が台無しです。もっとも、アクションがいまひとつ描写しきれていないので、回想シーンを入れざるを得なかったということかもしれませんが、まずは、しっかり力入れてアクションを描写してほしかったです。
  • 結局、巨人クバルは何をしたいの?壁の穴を埋めたいの、埋めたくないの、どっちなの?人間のときには穴を埋めたいということだったと思うけど、巨人になったら穴を埋めるのを妨害しているみたい。どちらなんでしょう?穴を埋めたいということであれば、エレン達と同じ目標なので、戦っているのは要するに内ゲバ。巨人クバルとの戦闘を描きたいので、理由はなんでもよい、ということなのかもしれませんが、雑すぎます(巨人クバルは、自分一人で穴を開けるのも埋めるのもできるのだから、そもそもエレン達と戦う必要はないって気もしますが、それを言っちゃあお仕舞いか)
  • 前編では、サシャが弓を放つ立ち姿が様になっているシーンがあったのだけど、今回は絵になっていない。残念。クバルとサシャの立ち位置が限られているから、仕方ないのかなぁ。でも、クバルさん、目の前で弓を引いている女の子がいるんだから、ちょっとは警戒して下さいね。
  • 最後は、ハッピーエンドで良かったです。
    衣装・セットも全体的に良好。衣装さん、美術さん、ご苦労様でした。
  • エンドロール後の描写は、原作者の意向、監督・脚本家など実写版サイドの意向どちらなんでしょう。いずれにせよ、バイオハザード的な方向性での続編はないでしょうから、制作側でカットすべきシーンではないですかね(仮に大ヒットしたとき、続編作れなくなってしまいます)。

 やはり前編・後編を合わせて一つの映画ですね。ちゃんと編集すれば2時間以内に収まる映画なので、1回で上演してほしかったです。2部にしたのは金勘定を考える制作サイドの意向でしょうが、監督など製作サイドはなぜ従ってしまったんでしょう?製作者としての矜持はないのでしょうか。残念です。

(追記)
 レビューを見ていると、怪獣映画「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(監督:本多猪四郎, 特撮:円谷英二, 1966)に言及する書き込みが、かなりあります。調べてみると、怪獣映画の名作のようです。監督の本多猪四郎はよく知りませんでしたが、「ゴジラ」の監督さんですね。特撮映画の黒澤明と言ったところでしょうか。子供の頃にみた、この監督の「モスラ」・「モスラ対ゴジラ」などモスラシリーズは大好きでした。ザ・ピーナッツの「もすらぁーや、もすらー...」のフレーズは今でも思い出します。懐かしい。大人になった今見たら、どう思うのだろう。ちょっと、見たくなりました。

(Amazonビデオで予告編が見られます)

ゴジラ

ゴジラ

モスラ(1961)

モスラ(1961)




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